アンビバレントな歌をうたう

相反する二つの感情、その双方に価値を置くこと

本当は鬱病だと言いたかった

五月半ばから鬱の波に飲み込まれていて、七月に入った今でも鬱々と過ごしている。周りの湿度を吸い込んではベタベタになった潮解性のある物質、水酸化マグネシウムとか炭酸カルシウムとか、になったみたいで何をするにもしんどい落とし穴に落ちてしまったかのようだ。もがいてももがいても出られない。私の短い人生でこの鬱の満ち引きはもう数十回は経験しているはずなのに、未だに対処方法がわからずオロオロするだけだ。無理ゲーレベルの脱出ゲームに放り込まれた気分で過ごしている。

 

そんな中でも行きがかり上、初めてお会いする人との約束があった。そのうち落とし穴から抜け出せるかもと、アポイントを延ばしに延ばしてもらっていたけれど、いつまでも逃げてばかりもいられないと腹を据え、会う算段を整えた。

 

もういいや。予定を先延ばしにしていたのは自分が鬱持ちであることを言ってしまおう。それを敬遠したり侮蔑するような人ならそれはそれで仕方ねえな。半ば投げやりな心持ちで家を出た。

 

ところが待ち合わせ場所に来た人はそんな杞憂を吹き飛ばすような人だった。あんまり人の話聞いてくれないし、自分の話したいことと訊きたいことをピッチングマシンのように次から次へと豪速球で投げてくる。しかも声デカいし。ただ、性質はとても善良で、言葉の裏側とか全く読めない鈍感さには安心感さえ覚えた。

 

会って早々に、リスケをお願いしたのはここのところてひどく鬱っぽくて、でも約束してたのにそれをうまくコントロールできなくてごめんなさい、って言おうとか色々考えていたのに全然そんなこと話せなかった。でもまあいいか。こんど会ったら、その時まだ井戸の底でもがいているようだったら言おう。そう思った。

世界三大美徳のひとつ、仲良し

今日は母と妹とともに、老舗の和菓子屋が経営するカフェに昼メシを食いに行った。

良質な野菜をふんだんに使っているというランチは常に好評で、すべての席が女性を中心に埋まっていた。

私たちの隣のテーブルについた男女はなぜか向かい合わず、横並びでずっと話をしていた。歳の頃は三十代後半あたり、男性のほうが少し若いかもしれない。恋人のような類の親密さはなく、タメ口で女性は少し騒がしくも楽しそうに話をしていた。

私は朝からの鬱がひどく、他所様を観察する余裕はなかったけれど、とにかくその二人が延々と仲良さそうにおしゃべりしているのを見ていると、「仲良しっていいなー」ってしみじみと思ってしまった。

私の彼氏はとても頭がよく、話していると楽しくて、友達からは「二人は仲がいいね」などと言われたりするが、それは表面上の話。私は常に緊張している。ボケているのなら突っ込まなきゃだし、クイズならボケるか真剣勝負するかだし、そもさんならせっぱだし。そしてたいていは彼氏の意図を拾えず、「バカな子」(41歳男だが)ということで落ちがつく。

などとむすっとした顔で椅子にもたれていたら、顔なじみの店員さんに妹が声を掛けられる。

 

「ご家族でランチ?仲いいですよね」

 

タイトルは中村航の小説、「夏休み」より。

相反する二つの感情の両方に、価値を置く

ambivalentという言葉を知ったのは、中学生、いや小学生の時だったか。

自分がしばしば抱く、このもやもやとした感情をすっきりと言い当ててくれる言葉を得たとき、サリバン先生に "water"という言葉を教わったヘレン・ケラーのような清々しい気持ちになった。

私は40代男。数歳年下の男と付き合っている。本当に好きで好きで、頼み込んで付き合ってもらったし、その気持ちが変わったわけでもないくせに、遠くに転勤すると言われればホッとして別れるだろう。

母は日に日にADL(日常生活動作)が下がっている。リハビリや食事療法等を頑張って、何とか良い時間を少しでも長く、と思う反面、母がいなければできるであろう私自身の自由度の高い生活についてしばしば思いを馳せてしまう。

私の人生は常にアンビバレンスとジレンマを重ねて生きてきた。たぶんこれからも。そのありきたりな内面の物語を、少しずつ残していこうと思う。